2019/05/02

【鳥取県】日ノ丸自動車法勝寺線


2019年5月2日、皆生温泉に両親と一泊後、宝塚へ戻る両親を米子駅へ送った後、Facebookの廃線跡仲間の方々に教えていただいた、米子電車軌道と日ノ丸自動車法勝寺線の廃線跡をたどりました。今回は後者のレポートです。

法勝寺線は米子を起点に南部の法勝寺までをつないでいたローカル私鉄。前身となる法勝寺鉄道(株)は1922(大正11)年に設立され、翌1923(大正12)年7月8日に米子町(米子市)から大袋まで、同8月12日に残る大袋・法勝寺間が開通。途中、母里支線の開業・廃止、他社との合併・分離、吸収合併等を重ねたのち、1967(昭和42)年に廃止されました。

今回は米子駅から南下する形で法勝寺駅跡までの路線をたどっています。以下の地図上のポイントにもいろいろコメントを入れています。赤いポイントは駅のあったところです。


スタート地点は米子駅。

のウラ側(笑)。
下の写真は米子駅の北側の踏切から撮ったもので、右側(西側)が上の写真の米子駅表玄関。今回たどった日ノ丸自動車法勝寺線は左側(東側)にありました。このオレンジの列車が去っていく先に、法勝寺線への連絡線の分岐があったはず。

廃止直前の1961(昭和36)年と現在の航空写真を重ねます。画面中央が法勝寺線の米子町(のちに米子市)駅。そこから左下に向けてカーブを描く連絡線が見えます。左上の踏切から撮ったのが上の写真です。

さて米子市駅。下の写真は東側から撮ったものですが、もはや影も形もありません。

廃線跡は右カーブを描いて進んでいきます。

右から加茂川を渡ってきた廃線跡は、この国道と向こうの山の間あたりで最初の駅、長砂駅に到着します。残念ながら寄ることはできませんでしたが、ホームの跡が残っている模様。

米子ICを過ぎ、国道から離れた廃線跡は川沿いを緩い左カーブを描きながら進んできます。写真の向こう側が米子市。川と道路の間に路面跡と思しき形跡がありました。残念ながら線路は発見できず。

さらに進むと宗形神社があります。

鳥居が見下ろすところにあったのが宗形神社前駅。写真の宗形神社前橋の手前の道路辺りにあったものと思われます。

写真の向こう側が米子市方面。


廃線跡の左側を並走していた加茂川は、その先で直角に右折。橋を架けてこれを越えた先には、築堤がきれいに残っていました。Googleマップの衛星写真でもきれいなラインが見えています。


築提の先は民家の庭先を通り再び道路に戻ります。

安養寺駅跡を越えると、廃線跡は右へカーブ。

左側は法勝寺川の土手です。

青木駅跡。ここからは当時のものを模した駅標が各駅の跡に建てられています。

その先で道路は途切れます。廃線跡は向こうに見える山の右手に向かって田んぼの中を走っていたはず。路面は田んぼの区画整理で跡形もありません。

その山の裾野には「法勝寺電車線路跡」の立て看板。おそらくこの後ろが廃線跡です。

廃線跡は看板の後ろを山の裾野に沿って左カーブ。道路もそれを追います。

廃線跡は道路になって続きます。メインの道路は右にカーブしていますが、廃線跡はまっすぐ。

今度は県道に合流。離合を繰り返します。クルマの停まっているところが県道。


ここから坂を下ってきたところが大袋駅跡。

ほとんど遺構のない法勝寺線ですが、ここにはいろいろ残っています。一番の遺構はこの橋脚跡でしょう。住宅地に忽然と現れる橋脚は、八王子の有名な京王御稜線のそれにも通じるものがあります。

その先の法勝寺川の土手にクルマを停めました。道路と土手の法面との境目に注目。

どうやらこれもここに橋が架かっていた痕跡のようです。


さらに対岸の土手にはなぜかここだけ盛り上がった部分があります。方角的にはここも線路が通っていた場所と考えて間違いなさそうです。

ここでようやく雲も晴れてきて、大山(だいせん)がその姿を現しました。関西人なら小学校から宿泊学習で登りに来た人も多いのでは?私もその一人です。

さて、ここから先は再び田んぼの中。痕跡はありません。

ふたたび道路と合流したところが次の手前駅跡。同名のバス停があるので比較的わかりやすいでしょう。


手間駅の先、道路は右カーブ。

廃線跡はさらにきついRを描いてメイン道路から離れていきます。

閑静な住宅街を抜け・・・

廃線跡だと言われるといかにもそれらしい(笑)切通しを過ぎ・・・

国道と合流したところが天津駅跡です。

ここにはホームの跡が残されています。お住いの方はお宅を建て替えられたようですが、ホームの跡は壊さずにあえて残してくださったのかもしれません。ありがたいことです。
(一般のお宅だと思いますので、撮影等の際は配慮を忘れないようにしたいですね)

この先は・・・まさに廃線跡(笑)。

良いところです・・・。ホントに心が癒されました。

その先で国道とはお別れ。廃線跡はまっすぐ進みます。

阿賀駅は母里(もり)支線への分岐点。ですが・・・写真撮るの忘れた(ToT)。
母里線も時間の都合で断念しましたが、隧道が残っているようで次回はぜひチャレンジしたいと思います。

次の大国駅は法勝寺線の中では一番新しい駅。1951(昭和39)年の開業です。すぐそばにある病院の開業に伴って設置されたとか。

その先で道路は3つに分かれます。なんとも不自然な・・・。廃線跡は真ん中です。

そしてまもなく終点・法勝寺。


廃線跡の道路もここで行き止まり。右の白いクルマの停まっているところは西伯郵便局。むかし駅舎があったところです。



近くの「法勝寺電車ひろば」には当時の電車「デハ201型203号」が静態保存されています。

今回は白土貞夫さんのRM LIBRARY 209「米子を走った電車-日ノ丸自動車法勝寺電車部・米子電車軌道」と宮脇先生の「鉄道廃線跡を歩く」を参考にさせていただきました。

今回の旅行は、そもそも実家に帰省した際に両親の希望で急遽どこか温泉旅行に行こうという話になって、ゴールデンウィークの真っ只中、唯一予約が取れたのが皆生(かいけ)温泉だったのがきっかけでした。米子電気軌道はまさに皆生温泉発展のために敷設された路線。Facebookのお仲間に教えていただいた廃線跡の中から選んだ2つがこの法勝寺線と米子電車軌道で、旅行後に仕事の昼休みに神保町の書店街でたまたこの法勝寺線と米子電車軌道だけを特集した「米子を走った電車~」を見つけた時はなんだか運命を感じてしまいました。
米子電車軌道の方は、遺構は何もありませんが廃線跡はほぼ街中の道路として残っています。また近いうちにレポートさせていただきます。


日ノ丸自動車法勝寺線 年表
1922(大正11)年
 法勝寺電車軌道(株)設立
1923(大正12)年7月8日
 米子町~大袋開業
1923(大正12)年8月12日
 大袋~法勝寺開業
1924(大正13)年2月12日
 伯陽電鉄(株)に改称
1930(昭和5)年1月1日
 母里支線開業
1935(昭和10)年3月8日
 米子町駅を米子市駅に改称申請
 (ただし、米子町が米子市になったのは1927(昭和2)年)
1937(昭和12)年
 母里支線の与一谷駅、不動尊駅廃止
1944(昭和19)年2月11日
 母里支線休止
1944(昭和19)年10月31日
 広瀬鉄道(株)と合併、山陰中央鉄道に改称
1946(昭和21)年4月1日
 長砂駅、宗形神社前駅休止
1951(昭和26)年2月20日
 大国駅開業
1952(昭和27)年8月11日
 長砂駅、宗形神社前駅の廃止申請(認可日不明)
1953(昭和28)年9月15日
 日ノ丸自動車が山陰中央鉄道を吸収合併
1957(昭和32)年4月18日
 長砂地内S字カーブで正面衝突事故
1959(昭和34)年9月17日
 母里支線廃止
1967(昭和42)年5月15日
 法勝寺線廃止

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